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札幌高等裁判所 昭和48年(ラ)5号 決定 1973年3月23日

抗告人 斉藤アキ(仮名) 外一名

相手方 斉藤光雄(仮名) 外七名

主文

原審判を取り消す。

本件を札幌家庭裁判所に差し戻す。

理由

一  本件抗告の趣旨および理由は別紙のとおりである。

二  当裁判所の判断

(一)  被相続人斉藤義正が昭和四六年五月八日札幌市○○町○○△△番地で死亡し、その相続人は抗告人アキ(妻)および嫡出子たる抗告人勉、相手方ら全員であるところ、義正は昭和四三年一二月一一日その所有する全財産を相手方光雄に贈与したが、右贈与当時義正はその事理を弁識する能力を有していたとの原審判における事実の認定は挙示の証拠にてらし肯認でき、父義正が右贈与当時心神耗弱の状態であつたとして右贈与の意思表示を取り消す旨の抗告人アキの主張も採用し難いとする判断も相当である。そして、右贈与も各相続人の遺留分侵害がある限度で減殺請求の対象となるは格別、直ちに無効とはなし難い。故に、抗告の理由1、2は理由がない。

(二)  然し乍ら、原審判確定前、抗告人らが抗告の理由3のとおり民法第一〇三〇条後段、第一〇三一条により右贈与につき減殺請求の意思表示をした以上、裁判所は減殺請求権の存否、効果等を判断したうえ、遺産分割の審判をなすのを相当とする(最高裁判所昭和四一年三月二日決定参照)。

ただ、本件においては、本件贈与がなされたのは昭和四三年一二月一一日、義正が死亡したのは昭和四六年五月八日であること前記のとおりであり、本件遺産分割の調停申立がなされたのが同年九月一四日、本件抗告理由3を記載した抗告の申立書が当裁判所に提出されたのが昭和四七年一二月一三日であることは記録上明らかであるところ、抗告人らは、義正の死亡による相続の開始があつたことは義正死亡当時これを知つたこと、右贈与があつたことはおそくとも本件遺産分割調停申立当時にはこれを知つていたことは審判の経過に徴し明らかであるから、本件遺留分減殺請求の意思表示は、相続の開始および減殺すべき贈与があつたことを知つた時から一年を経過した後になされたことが明らかである。そして、減殺の請求権は、相続の開始および減殺すべき贈与があつたことを知つた時から一年間これを行わないときは時効によつて消滅すること民法第一〇四二条の定めるところであるので、本件遺留分減殺請求はすでに消滅時効の完成によつてなし得ないものではないかとの疑問が生じ得る。しかし右法条に「減殺すべき贈与があつたことを知つた時」とは、該贈与がなされたことおよびその贈与が有効であることを知つた時を指称するものというべきであり、遺留分権利者においてその贈与の有効を争つている場合には、これを争うことが明らかに不合理である場合を除き右の消滅時効は進行せず、それが遺産分割の審判で争われている場合には、その審判において、その贈与が真正になされたとの判断があつた時をもつて時効の起点と解するのが相当である。

これを本件についてみるに、原審における証人米沢文男の証言により成立の真正を認め得る乙第一号証、同証人、証人秋月敬造、同中山輝雄の各証言、抗告人両名、相手方光雄各本人尋問の結果に審判手続の経過を総合すれば、次の事実を認め得る。

義正は昭和三七年頃から高木よし子と懇ろになり、同女を妾としてかこつていたが、昭和四三年一二月当時は後記○○病院退院後であつたのにほとんどよし子の許に起居していたし、以前義正が○○町農業協同組合専務理事として在職中の給料もよし子に与えていたことなどから、抗告人アキは義正が財産をよし子にやつてしまうのではないかと考え不安に感じたこともあつて、義正を相手方として札幌家庭裁判所に夫婦関係調整の調停申立をし、その調停期日呼出状がよし子の許にとどき、その呼出状をうけとつた義正は、抗告人アキのところに来て、右調停の申立を取り下げろと言つたのに対し、抗告人アキが妾に財産をとられるから取り下げないと答えたので、「財産はお前にはやれぬ、光雄にやる。」と言つたところ、当時抗告人アキと同居していた相手方光雄はこれを聞き、義正の言うとおりであるなら第三者の立会をえて明らかにしておこうと考え、同人や義正と付き合いのある米沢文男を呼び、義正と口論して外出した抗告人アキを呼び戻して、同人に対し、米沢が書いた、「斉藤義正は実子二男斉藤光雄に斉藤義正名儀の全財産と及びその債権債務等一切の行使を委任させると共にその全財産の譲渡することを誓約し尚その期日は本日をもつて行うものとする。」との記載内容の誓約書に署名をさせた。然し、旧尋常小学校三年生までの教育しか受けていない明治三六年生れの抗告人アキとしては、右誓約書を米沢から読み聞かせられたものの、その内容たとえば「譲渡」という語句の意味も必ずしも正確に理解できたわけではなく、むしろ相手方光雄に義正の全財産の管理をまかせる意味のものと理解し、相手方光雄が財産を管理するようになればもはや義正は財産を妾にやつてしまうこともなくなつたと安堵し、前記調停の申立を取り下げることを同意したのであつて、誓約書に署名したことによつて斉藤家の全財産は相手方光雄のものとなり、義正の妻である自分や他の子供らは全然貰えないこととなるとまでは考えていなかつた。ところで義正は、昭和四二年七月○○医大で精密検査の結果脳軟化症と診断され、同月から同年八月にかけ○○の○○病院に入院、のち○○医大に移りひき続き約三か月入院し、退院後一時△△病院に通院したが、その症状が悪くなつたので昭和四三年一〇月中山病院に入院し約一か月後症状好転しないまま義正の希望で退院したが、同病院における中山医師の診断によれば、義正には言語障害、歩行困難など脳軟化症状がみられ、老人ボケという判断のにぶさがみられて入院を要する状態であり、一日の生活のうちでも割合はつきりしていることもあればボケが強くなることもあるという症状であつたというのであり、抗告人アキの目には義正の日常の行動たとえば右○○病院入院中に自分の娘に千円札を渡して十万円を渡したと言つたり、中山病院入院前でも、義正を訪ねて来る人の顔を判断できないことがあつたり、手紙が来ても読めないなどの日常の様子から義正の頭がおかしいと判断し、物事の判断力をあやぶんでいたので、右誓約書の署名は右中山病院退院後のでき事であるから、抗告人アキおよびかねて同人から、義正財産の管理を相手方光雄にまかせたときいていた抗告人勉としては、右誓約書の内容の趣旨が、当時すくなくとも五、六千万円はあつた義正の財産を、妻である抗告人アキや他の八人の子供をさしおいて、全部相手方光雄に義正が贈与するものであつたというのであれば、右のような義正の当時の状態から、義正の弁識力はとうてい正常なものではなかつたのではないかと推断し、従つて相手方光雄への贈与は無効と信じて本件遺産分割の調停を申し立てるに至つた。

右のような事実を認め得る。右のような事実関係のもとでは、抗告人ら遺留分権利者が本件贈与の有効性を、本件遺産分割の調停および審判手続で争つていることは、十分納得し得ることであり、これが明らかに不合理とは断じ難いのである。従つて、前記説示の理由により昭和四七年一一月三〇日になされた原審判に対し、本件即時抗告を申し立て、その申立書においてなされた抗告人らの遺留分減殺の請求は適法と解すべきものである。

以上のとおりであるので、本件事案に鑑み、原審をして前記判断を要する点につきさらに審理をなさしめるため、家事審判規則第一九条第一項の趣旨に則り、原審判を取り消し、本件を原審に差し戻すこととして主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 朝田孝 裁判官 秋吉稔弘 町田顕)

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